前に母が亡くなった時に泣けなかったということを書いた。
周りが泣いているのに、自分だけが妙に冷静でいたのだ。
自分は何故、泣けないのだろう?
自分はとても冷たい人間だ。
そうも思っていた。
けれども、やはり私も泣いたのだ。
それは母の体が焼かれて骨になった時だ。
しかし、母が居なくなったことに泣いたのではない。
骨になったことで人が物になってしまった虚しさに泣いたのだ。
思えばその時には発症していたのかもしれない。。
人は時に常識とは違う反応を見せる時がある。
以前、火傷で入院していた時、耳の中が膿んでしまったことがある。
当然、切開をしたのだが、これが言葉で言い表せないほど痛かった。
局部麻酔をしていたにも係わらずだ。
その時、私は悲鳴を上げたのだが、同時に笑っていたのだ。
それは私にとって異常な体験だった。
しかし、医師の話では異なった言葉が返ってきた。
人は極度の痛みを感じた時には笑うのだそうだ。
そんなことはありえない。
常識で考えればそうなのである。
しかし、私が体験したことは事実であるし、医師の言葉もまたハッキリと聞いたのだ。
人は時に理解のできない反応を見せることがある。
そのメカニズムは分からないが、きっと自分を守るための反応なのだろう。
私は泣けなかった時がある。
そして理由もなく泣いた時もある。
それぞれは常識で考えにくいことである。
恐らく、その時は自分を守ろうとしていたのだろう。
それはサインだったのかもしれない。
でも、私はそれに対してきちんと対応はしなかった。
それが今に繋がったのだと思う。
自分を守ろうとしていたのだろう。。
サインは見逃さないこと。
その言葉は重くのしかかってくる。。
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