2014年1月16日木曜日

いじめ

昨夜また悲しいニュースを見た。
新幹線にはねられて亡くなった女子生徒にいじめによる自殺という可能性が出てきたと報じたものだった。
実に痛ましい出来事だ。

教育委員会はこの事についてアンケートを実施するというが、それが何になるのだろうか。
仮にこれでいじめの事実が出て、いじめた人間が特定されたとして、その後はどうなるのだろう?
担任の教師やいじめた側の生徒は単に注意されるだけではないのだろうか。
それではあまりにも軽すぎる。
人がひとり、亡くなっているのだ。

仮に命を落とさなかったからといって、いじめられた側には心に大きなキズが残る。
それが深すぎた場合、心が病んでしまう事もある。
そうなった場合、一生を棒に降ってしまうことにもなりかねない。
そのとき、その責任は誰が取るというのだろう?

よくいじめた側にも問題を抱えていることがあるというが、それで許して良いのだろうか?
失った者の人権はどうなるのだろう?

私は「いじめ」という言葉を使うこと自体がいじめたがわの「甘え」だと思っている。
命や一生を奪ってしまう行為に対してなんの罰も与えないという言葉に聞こえてしまうのだ。
これは立派な刑事事件だ。
軽くても障害事件とするべきだ。
そしてそれを看過していた教師は、積極的ではないにしろ自殺幇助とすべきだと思う。
いじめた側も問題を抱えているというのならば、それは刑事罰を与えたあとにフォローすれば良い問題だ。
人の一生を奪う行為なのだから、それくらいの代償を払うべきなのだと思う。

いじめと言う言葉を使い続けていくうちは、こうして命を落としていく人はいなくならないだろう。

私をいじめて一生を奪った一族は単に言葉で謝っただけだ。
それで良いと思っている。
けれども、私は心を病んで人生が狂わされている。
責任を取ったとはいえない。
でも、それ以上追求する人間はいない。

それでいいのだろうか?
私は違うと思う。
心に傷をつけられてしまった場合、そこから脱するにはかなり苦しまなければならない。
そして、それをするのは「自分」なのだ。
これは理不尽なことではないだろうか?

いじめは強者が弱者を痛めつけることによって、逃走本能を満たし、コミュニティの平和を保つ行為ではなかろうか?
そして、これは差別につながるのではないだろうか?
だとするのならば、この行為は違憲だ。
違憲に繋がる行為を許して良いのだろうか?

いじめによる自殺は「事件」として扱うべきだ。
私は、そう思う。。

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