今朝方、雪がちらついたと朝のニュースが報じていた。
幸い積もるほどではなかったので、いつものようにスクーターで出かけた。
といっても、近所の中古屋で面白そうなものを探して、いつもの紅茶専門店に来ただけなのだが。。
それにしても外気は寒い。
手袋をしているので、手が悴むということはないが、足元が寒く、スクーターに乗っているときは震えていた。
冬だから仕方が無いと言ってしまえばそれまでなのだが、それでも寒いのは辛い。
それに引換え室内に入ると心地よい。
店内の窓側の席に着くと日差しが暖かい。
風は冷たいが太陽からの暖かさは確実に伝わっているということだろう。
心に問題があると世の中で生きていくのがとても辛い。
全てが敵にさえ思えてしまうのだ。
そうして思う、自分は何故、救われないのかと。。
確かに救いの手というのを感じることはない。
そういう時に手を差し伸べてくるのは新興宗教だ。
私のところにもそれはやってきた。
だが、それで救われるというのは、まやかしだと思う。
苦しいところから脱するのには、やはり自分の力でしかない。
悲しいことだがそれは事実だ。
では、それが出来ない者は救われないのだろうか?
それに対して答えることはとても辛い。。
辛い時、他人の幸せというものが余計に目につく。
見てしまうと辛いとは分かっていても目に入ってしまうのだ。
だから余計に救われない。
では、世のかなには全く救いの手は無いのだろうか?
そうでもないのかもしれない。
全て人がそうではないかもしれないが、家族のある人は家族が救ってくれている面もあるような気がする。
どんな状態であっても、家族だけは見放してしまうことが難しいからだ。
だから傍にいてくれる。
それは、家族がいるうちには分からないのかもしれない。。
社会保障や医師なども救いの手を差し伸べてくれているひとつだろう。
それは決して十分ではないのかもしれないが、全く無いとはいえないと思う。
最低限、生きていくことは出来るのだ。
そういうものは丁度冬の日の窓際にさす日の光に似ているのかもしれない。
外気は寒く、吹く風は厳しくても、室内に入り感じる日差しは暖かい。
私達は外気の温度を基準にしてものを言いやすいが、実はそれだけではないことに気づいてはいないのかもしれない。
厳しい寒さの中、そんな場所に気づき、退避場所を作ることが必要なのかもしれない。。
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