生きられない人というのがいる。
いわゆる肉体的な病気ではなく、精神的に追い詰められてと言う意味でである。
生きられずに悩む人、実際に手を下して失敗した人、望みが叶ってしまった人。。。
そういう人達を正論では救えない。
何故なら、正論は個別の事情を考慮していない無責任な言葉だからだ。
人はよく「頑張れ」という。
これもまた無責任な言葉だと私は思う。
精神的に追い詰められてしまった場合、まず大切なのはその人の「事情」を理解することではないだろうか?
普通の人はそれをすっ飛ばしてこのような言葉を使い、救ったように感じて満足する。
それでは解決にはならないのだ。
こうした場合、大事なのは傾聴の姿勢だといわれている。
自分の意見を挟まず、唯相手の言葉を聞く。
だが、それはとても難しい。
どうしても自分の言葉が出てしまうからだ。
そして、こうするべきだと言ってしまう。
それでは普通の人と何ら変わることはない。
私もまた、生きられない人の一人だった。
正論を言ってくる人もいた。
もちろん私の身を案じてなのだが、それは私の心には届かなかった。
そのために何度か死を試みた。
それが失敗したから今こうしてここにいられている。
過去に起こしたその事を今、悔やんではいない。
生きる術を見失って、なお行きたいと思った結果だからだと理解しているからだ。
この一見矛盾しているような感情は、実は私の中では破綻せずに両立している。
死を選ぶということは最後の防御であり、同時に最後の攻撃でもあるからだ。
それは全て心が生き続けるために行われるからだ。
この事を普通の人々は理解していない。
さて、では私は生きる術を見つけられたのだろうか?
答えは否である。
では、まだ生きられない中にいるのだろうか?
これも答えは否である。
矛盾しているが二つの否が存在している。
生きてはいける、でも積極的には生きていない。
そんな状態なのだ。
今はそれでもいいと思っている。
そう簡単には自分の性質は変えられない。
それには時間が必要なのだ。
だから積極的に死を選ばないだけいいのだと思う。。
生きる術はこれから見つけていけばいいのであるから。。
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