2013年12月26日木曜日

生きられない人

生きられない人というのがいる。
いわゆる肉体的な病気ではなく、精神的に追い詰められてと言う意味でである。
生きられずに悩む人、実際に手を下して失敗した人、望みが叶ってしまった人。。。

そういう人達を正論では救えない。
何故なら、正論は個別の事情を考慮していない無責任な言葉だからだ。

人はよく「頑張れ」という。
これもまた無責任な言葉だと私は思う。
精神的に追い詰められてしまった場合、まず大切なのはその人の「事情」を理解することではないだろうか?
普通の人はそれをすっ飛ばしてこのような言葉を使い、救ったように感じて満足する。
それでは解決にはならないのだ。

こうした場合、大事なのは傾聴の姿勢だといわれている。
自分の意見を挟まず、唯相手の言葉を聞く。
だが、それはとても難しい。
どうしても自分の言葉が出てしまうからだ。
そして、こうするべきだと言ってしまう。
それでは普通の人と何ら変わることはない。

私もまた、生きられない人の一人だった。
正論を言ってくる人もいた。
もちろん私の身を案じてなのだが、それは私の心には届かなかった。
そのために何度か死を試みた。

それが失敗したから今こうしてここにいられている。
過去に起こしたその事を今、悔やんではいない。
生きる術を見失って、なお行きたいと思った結果だからだと理解しているからだ。
この一見矛盾しているような感情は、実は私の中では破綻せずに両立している。
死を選ぶということは最後の防御であり、同時に最後の攻撃でもあるからだ。
それは全て心が生き続けるために行われるからだ。
この事を普通の人々は理解していない。

さて、では私は生きる術を見つけられたのだろうか?
答えは否である。
では、まだ生きられない中にいるのだろうか?
これも答えは否である。
矛盾しているが二つの否が存在している。
生きてはいける、でも積極的には生きていない。
そんな状態なのだ。

今はそれでもいいと思っている。
そう簡単には自分の性質は変えられない。
それには時間が必要なのだ。
だから積極的に死を選ばないだけいいのだと思う。。
生きる術はこれから見つけていけばいいのであるから。。

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