朝の職場、誰もいないので殆ど音が無い。
元々静かな職場なので業務が始まってもさほど五月蝿くはない。
けれども私はこの静寂が好きだ。
私は音が無いのはあまり得意ではない。
寝るときもラジオをつけっぱなしにしているくらいだ。
だから職場のこの時間は小さなテレビをつけている。
静寂が好きだと言っていながら矛盾している。
静寂は何も音だけに限ったことではないと思っている。
誰も居ない空間、沈んだように静かな空気、薄暗い空間。。
それら視覚などから入ってくる様子も静寂と呼べるのではないだろうか?
そんな様子が私は好きなのだ。。
きっとそれは私の「人嫌い」が働いているのだろう。
人と関わっていくのは人の本能でもある。
けれども、それは時に煩わしい。
その煩わしさはストレスになる。
私はそれが嫌いなのだ。。
ゆったりとした一人の時間、それが私にとって大事な時間なのだ。
あまり人と関わりたくない。
それは私の生育歴にも関わってくるのだろう。。
親類に虐め倒され、人を信じられなくなった幼少期の記憶。
それは今でも私の心に影を落としている。
その為に私は人との適切な付き合い方を知らない。
今更それを変えることも出来ない。
白々しくなってしまうのだ。
でも、何時までもそういうわけにはいかない。
故に考え方を変えていく必要がある。
あの私達家族に危害を加えていた人間の大多数はこの世にはいない。
だからもう苦しむ必要はないのだ。
とはいっても、長い間支配してきた記憶がすぐに消えてくれる訳ではない。
表面はおさまっていて感情はフラットになってくれているといっても、心の底ではどうなのかは分からない。
それがまた、いつ感情の表面に浮かび上がってくるかも分からない。
不安は残るが、その不安に囚われてはいけない。。
現実と記憶を突き合わせて、最も安定する状態を見つけ出す。
そこが鍵となるのだろう。。
そうしている中で、人との距離感を掴んでいく。
それが今、必要なことなのだが、なかなか難しい。
けれども、時間が無いわけではない。
だから焦る必要は無い。
染み付いてしまった性質は急に変化するわけではないのだ。
時間をかけてじっくりと取り組んでいけばいいのだ。
メンタル面のツールも持っている。
まぁ、なんとかなるのだろう。。
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