2013年12月17日火曜日

幸福

幸福、これ日ど抽象的で人の心を支配している言葉はない。
そこから遠い位置にいる人には乾ききった喉が水を求めるように渇望するものだ。

よく「人の幸せを羨んではいけない」という。
私はこの言葉が嫌いだった。
不幸な人間には仕方のないことではないか。
そう思ってきた。
これは幸せな人間がいう言葉なのだ。
そう思ってきた。
今でもその気持ちは変わらないが、最近少し見方が変わってきた。

前のBlogでも書いたが、人は理想と現実に大きなギャップがあると苦しんでしまう。
幸福と不幸の間には大きなギャップがある。
そして不幸に中にいるとなかなか自分だけの力では抜け出せない。
そこに大きなギャップがある。

さりとて誰かがその状態から救いあげてくれるだろうか?
それもなかなか難しいのではないか。
ではどうすればいいのだろう?
ギャップを埋めてしまえばいいのだ。

そもそも幸福という状態はどんなものなのだろう?
お金を持っていることだろうか?
仕事を持っていることだろうか?
家族がいることだろうか?
答えは必ずしもそうではない。
それらを持っていても不幸と感じる人はいる。
では、幸福とはなんなのだろうか?

私は幸福とは確たる定義のない言葉ではないかと思っている。
他人から見れば幸せに見えていても、実はそうではない場合が多くあると思う。
では、幸福とはどんな状態なのだろう?

私はそれは考え方の問題だと思う。
今、私は外から見ると決して幸せだといえる状態ではないのではないかと思う。
けれども、私は決してそうではないと思っている。
孤独ではあるが不幸ではないと思っている。
一人は自由なのだ。
そう思っている。
なぜそう思うのだろうか?

一時期、私は自分の事を不幸だと思い続けてきた。
それは人生の中で多くの時間を占めてきた。
だが、そう思ってしまう状態が「不幸」なのだ。
だからギャップは埋まらず、人は苦しんでしまう。

アサーションという手法がある。
悪いことと思えるものでも考え方や見方を変えて良い状態になるというものだそうだ。
例えばコップに水が半分あるとする。
これには「もう半分しかない」と考えることと「まだ半分ある」と考えることの二通りがある。
どちらが心にとって良い状態を保ってくれるかは、考えなくてもわかる。
事実は変わらないが、見方を変えることで自分が感じる事は変わってくる。
現実とは五感が感じで脳が判断するものではないだろうか?
ならば脳が感じる部分を変えてしまえばいいのだ。

幸福は定義のない言葉だ。
ならば自分なりの幸福というものを定義してしまえばいい。
そうすることで両者のギャップはかなり埋まってくれる。
そうすれば同じ現実でも違った捉え方が出来るのではないだろうか?
それは単に誤魔化しだと言う人もいるだろう。
わたし自身、いつまでこの考え方が続くかは分からない。
けれども、今わたしの心はとても安定している。
その事だけは事実である。

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