2013年11月30日土曜日

インターネット

今日、部屋に帰ったらネットに繋がらなくなってしまった。
どうしたのかと思ったらDSUに電源が落ちていた。
電源線を辿ったり、コンセントのスイッチを入れたり切ったりしたら直った。
これが動いてくれないとWiFiも使えないので、一瞬焦った。

このところパソコンもタブレットもそれなりに活躍してくれている。
精神面のリズムや血糖値の記録、BlogやFacebookなどなど。。
それなりに精神面の安定に役立ってくれている。

リアルな世界とヴァーチャルな世界。
どちらも人とのかかわり合いということは変わらない。。
私等はヴァーチャルな世界にも救われている。

ヴァーチャルな世界は外に出る手間がない。
それだけに危うい面も持っている。
誰もが仮名の中で生きているので、暴走しやすい。
現実世界と乖離しているので生き方が変わってしまう。
勘違いもしやすい。。

それでも遠方の相手と気軽にコンタクトが取れる。
そういうところはいい。
そのために以前はあった文通やエアメールと言った言葉は知る人が少なくなってきた。

リア充という言葉がある。
現実が充実しているという意味だそうだ。
その部分が強調されているように感じるのは私だけだろうか?

ヴァーチャルな世界が便利になっていてもやはり人は現実の世界に充実感を求めるのだろう。
それならば、それでいい。

アシモフやクラークはヴァーチャルな世界が進んだ未来を書いている。
どちらも人とのコミュニケーションが極端になくなった世界を描いている。
その方が幸せだと登場人物は考えている。
そういう未来はどうかと思う。

ただ、リアルな人間関係は疲れる時がある。
ヴァーチャルはその度合いが少ない。
要は良きバランスが大事なのだろう。。

落ち着ける場所

落ち着ける場所、それは案外大事だと思う。
自分の家はもちろんだが、それ以外でもいくつか持っていたほうがいい。

落ち着けるというのは人によって様々だと思う。
図書館のようにほぼ音のない場所がいいという人もいるだろう。。
私はそういう場所は駄目だ。
いくらか音がないと落ち着かない。
部屋にいてもテレビやラジオ、音楽など何かしらの音が鳴っている。
無音だと落ち着かないのだ。

そこにはきっと寂しいという気持ちがあるのだろう。
これまで育ってきた中で私はどこか孤独感を抱いてきたように思う。
人からは傷つけられたほうが多いのに、寂しがり屋なのである。
こういう矛盾した気持ちをずっと抱いてきたに違いない。

寂しがりやだからこそ、孤独感は大きかったのだろう。
けれども、傷つけられまいと人に壁を作って生きてきた。
矛盾そのものである。
それでどうしたいかというと、適度な距離感を持って人と付き合っていけたならと思う。
いまさら深い人間関係を築けるとは思えない。
壁を作ってしまうのは、もはや性格になってしまっているようだからだ。
だから適度な距離を保たないと破綻しかねないと思うからだ。
それでも、その適度な距離感というものがわからない。
困ったものだと思う。

長いこと苦しんできて今更ながらにこれまでの人生は残念だったと思う。
先に何か希望が見えるわけではない。。
けれども今は苦しんではいない。
先のことをあまり考えないようにしているからだ。
楽しいわけでじゃないが、苦しくはない。
落ち着いているのだ。
心の奥で何か落ち着けるところを見つけたのかもしれない。。

11月30日

今日で11月も終わり。
明日からは当たり前のことだが12月だ。

12月といえばクリスマス。
もうあちこちで飾り付けが始まっている。
これからはこういったもようしが続いていく。

しかし、私には縁のないお話だ。
これといって一緒に祝ってくれる人も思い当たらなければ、お酒を止められているので飲みに行くこともない。
基本的に一人ということになる。

これは私だけではないようにも感じる。
心に問題を抱えた場合で理解者が居ないとやはり一人なのではばいだろうか?
そうなると世の中のイベントとは無関係になる。
そして、そのことが辛さを感じさせる。
世の中が浮かれているということは、こういう人には美くない環境ではないか?
でもその流れ自体には罪はない。

うーん、難しいことのような気がする。。
結局、孤独にならない環境づくりが必要なんだと思う。
それは近くの他人との関係でもいいのではないだろうか?
ちょっとした顔見知りでも楽しめることはあるような気がする。
例えば、デイケアのような場所でもいいと思う。
とにかく、閉じ込まないことだ。

とはいえ、なかなか外出すら出来ない人もいる。
そういう時や人は救われないと思うのかもしない。
私もそうだったが、正直どうすればいいのかわからなかった。
ただ一つだけ解っているのは、どんなに長くかかっても必ず終わりは来るということだ。
希望を持つことは出来なくても、そのことは忘れないようにしたい。。

2013年11月29日金曜日

ニュース

一昨日から千葉県の女性殺害事件の事が報じられている。
犯人はストーキングをしていたというのだが、これに対する対応が日本ではしっかり出来ていないと思う。

まず警察の対応。
被害者はこの事を警察に相談していたそうだが、口頭注意で済ませ、被害者の保護を怠っている。
基本的に事件にならないと警察は動こうとしない。
いくら民事不介入といえども、これでは被害者は救われない。

それと加害者側へのケアも全くない。
これらの行為をする人の中には、心を病んでいたり、大きく歪んだ考え方を持っている人も居るのではないかと思う。
こういうことに対して全くケアするプログラムがない。
ただ悪人だから罰して隔離すれば良い。
その程度の浅はかな考えしか持っていない。
これでは再犯は防げない。

これはDVにも云えることである。
異常な行動をする人は悪い人間で隔離して罰すればいい。
そんな考え方しか出来ない。
情けないことである。
その場しのぎの事しか考えていない。

確かに被害者の保護は大事なことである。
けれども、同時に再犯防止の試みを実施しなければならない。
余りにも心の問題が軽んじられている。
それは精神科や診療内科へいくことが恥ととらえている国民性もあるのだろう。
私たち日本人は精神的にもっと成長すべきだと思う。。

2013年11月28日木曜日

朝の時間

最近は大分寒くなってきた。
布団から出るのが億劫になる季節だ。
そうでなくても冬は落ち込みやすいのに。。

そんな季節だからちょっと工夫をしてみた。
夜寝る前にエアコンのタイマーをセットしておくのだ。
そうすることで起きる頃には部屋が暖かくなっている。
何かの本で読んだのだが、これが結構いい。

落ち込まない工夫はとても大事だ。
ちょっとしたことではあるのだが、悪い要素を無くすことが出来る。
こういう工夫を多く持ちたいと思っている。

小さなストレスの積み重なりがやがて鬱状態を引き起こすのではないか?
そんな気がしている。
だとすれば、一定の期間を過ぎたときにもストレスが溜まるはずだ。
その時にはもっと大きな工夫が必要なのだろう。

出来るなら外部のストレスから離れられる方法がいい。
旅行という手もあるのだろう。
日常というストレスのある環境から離れることが出来る。
ただ、それなりに費用がかかる。

また、入院という方法もある。
隔離された環境で心を休めるのだ。
だが、これにも費用はかかる。

要はどちらの方が手間と費用がかからないかだと思う。
どちらにしても日常から離れられる事には変わりがないからだ。
あとはどの位の期間でそういう状態になるかだ。

そのためにはサインを見逃さないことだ。
今のところ非常に楽に過ごせている。
だからまだそういうサインがない。
ただひとついえるのは、睡眠のリズムがくるうというものではないかと思う。
もう少し様子を見ていきたいと思う。

2013年11月27日水曜日

1週間

今日で復帰1週間。
変化のない平凡な日々を過ごしている。
良い感じだ。

気がつくと平凡な日々に安らぎを感じている自分がいる。
以前には感じたことのない感情だ。

以前はとにかく憂鬱だった。
基本気持ちが沈んだままに過ごしていた。
その時と今では何か変わった出来事があったわけではないが、憂鬱な気持ちは感じずにすんでいる。

これまでと変わったことといえば入浴の時間を早めたくらいだ。
この時間帯、テレビではろくな番組をやっていない。
私にとっては空白の時間なので、ここに入浴の時間を入れた。

お陰で自分の時間というものを持てている。
そこでストレスが解消されているのかもしれない。
だから目覚めが割りと良い。

自分のための時間が持てているのは良いみたいだ。
負のスパイラルにも陥っていない。
では1日が楽しいのかというとそうでもない。
何かをしたいという衝動に駆られることもない。
職場の人と積極的に話すわけでもない。
只楽に過ごしているのだ。

職場の人とは私なりの距離を置いているようだ。
それよりも近しい人を作ろうとしている。
それでもまだ適度な距離は取ろうとしている。
孤独にならないようにしているようだ。

それから、1日1回のBlogの更新も良いのかもしれない。
1日を振り返っているわけではないが「書く」という行為が気持ちを楽にさせている。

今のところ悪くない1日を過ごしている。
まぁ、これで良いのだろう。

2013年11月26日火曜日

今朝のこと

今日の朝、少しだけ起きるのを躊躇ってし待った。
憂鬱、というのではないのだが、少し頭がいたかったのと眠かっただ。
昨晩確かに疲れていたのだが、寝る時間はほぼ設定したいつもの時間だった。

復帰して営業日で4日目、少し慣れてきて気持ちの緩みが出たのと、やはり疲れが蓄積してきたからだろう。
まだまだ助走期間なのだと言い聞かせている。

そんな中で色々と相談してくる同僚がいる。
勿論業務のことでだ。
恐らく私もその意見に賛同して動く仲間にしたいのだろうが、今はそれに追随することは控えている。
まぁ、私の休職の理由は聞かされていないそうなので仕方がないのだが、正直申し訳なく思うのと、もう少し気遣いをもって欲しいという気持ちとが入り混じっている。

精神障害者の辛いところだ。
外からは分からないので気遣いされない。
差別をされていないというところはいいのだが、よけいなストレスに曝されてしまう。
症状が出てしまうと「怠けている」とか「きちがい」と言われる。
どうすればいいのだろう?

勿論、治療を怠っているのではない。
私たちだって苦しみから逃れたいのだ。
そこをどう理解してもらえるのか、もしかすると永遠の課題なのかもしれない。
私たちの持っているのも普通の病気なのだ。
そう叫びたいこともある。

いつか理解される日が来ることを願っている。

2013年11月25日月曜日

昼休み

午前中の業務が終わっていまお昼休み。
神経を弛緩できる時間だ。
以前は椅子に座ったままで昼寝を決め込んでいたが、今は不思議と眠くない。
未だ業務が本格的ではないと言ってしまえばそれまでなのだが、そうだとしてもおかしな現象とも言える。
妙に興奮しているのだ。

だからと言って不快な状況でもない。
退社してからの疲れも心地よいものだ。
達成感がある訳ではないが、不快な感じはしない。
何故、そうなったのだろう ?

復帰前に恐怖にすら感じていた再発ということも、今頭の中にはない。
朝も心地よく目覚めている。
精神的な負担が無いように感じるのだ。
ある意味で無責任に生きている。

もしかすると、それが私には合っているのかもしれない。
真面目で責任感が強いのは良いことだが、それでは負担が大きすぎると思う。
もう少し肩の力を抜いて楽に生きる。
そいすれば楽に生きられるのだろう。。

静寂

今日も7時に出社した。
まだ社内の空気はひんやりとしている。
近くを走る電車の音と車の音が社内に忍び込んでくるだけ。。
こういう時間も悪いものではない。

復帰して最初の月曜日、憂鬱な気分になるかと思ったが意外とそうでもない。
やる気とまではいかないが、気分は悪くない。
人間ここまで変われるかと思うと不思議である。

これはやはりメンタルケアをした効果なのだろう。
リワークで学んだことは大きいと思う。
これが人の力なんだと改めて思う。

ここで思うのは、これまで何故自分は変わることが出来なかったのだろうということだ。
記憶を消すことができたならどんなに楽だろう。
そう思い続けてきた。
その記憶は今も心の中にあるのだが、不思議と苦しくない。
意識して思い出そうとしなければ、意識の表面に浮かんで来ることはない。
受け入れるとはこういうことなのだろうか?

過去は変えられない。
ずっとそう思ってきた。
それは絶望だけしか生み出さなかった。
だが、自分は変えられる。未来は変えられるという言葉に出会ってからは少し楽になった。
人を羨み、私は人を憎んできた。
普通の過去を持つ人は憎しみの対象でもあった。
それは今も心のそこには残っている。

他人は変えられない。
過去は変えられない。
それはある意味、自分にとってはきつい言葉だった。
でもその言葉も今の自分を楽にさせている。
自分の深いところもきっと変えられないのだろうが、表面的な部分は変わったように思う。
表面が変われば人は楽になるのかも知れない。
人の本質はもしかすると変わらなくてもいいのかもしれない。
表面的な考え方が変われば、それでいいのかも知れない。。
あとは心の中の闇とどう向き合うのか、それさえわかればいいのかもしれない。。

2013年11月24日日曜日

日曜日

職場に戻って最初の週末。

それほど疲れた感じはしなかったが、昼間1時間程度の仮眠はとっていた。

今は20時00分、なんとなく眠気がする。

やはり疲れていたのだろう。

それでも、以前感じていたあの嫌な気分の落ち込みはない。

どちらかと言うと「落ち着いている」といったほうが近い。

まだ1週間回したわけではないのでなんとも言えないが、今のところは良い状態を保っていられている。

この心境の変化はなんだろう?

ふと考えてみる。

以前と何が違うのだろう??

以前の給食と違うのは、メンタルケアをしっかりとしたことだ。

それで心の中の重いものがすっととれた気がする。

それに幾らかの仲間にも出会えた。

導いてくれた人達がいる。

自分は孤独ではない。

そんな気持ちが心にはある。

以前はその実感がなく、孤独感が強かった。

それが大きな変化だ。

他に変わったところはない。

それでも、昼間は少し出かけ、外で食事を摂ることもできた。

以前は出来なかったことだ。

短い休日を楽しむ。

そんなことが出来るようになりつつある。

何か特別なことをしているわけではないが、近くの喫茶店でお茶を飲みながらB logなぞを更新する。

そういう静かな時間を楽しむようになった。

今はそれだけでいいと思っている。

多くのことをしようとするとまた破綻してしまうと思うから。。

自殺

最近、自殺について考えることがある。
と言っても死にたいわけではない。
何故自殺を選んでしまうのだろうという疑問があるからだ。
私の場合は怒りを自分に向けたからなのだが、多くの場合は絶望感から来ているように思うのだ。

それでも、よく解らないところがある。
自分の体に火をつけたあとに思ったのは、人間の体は生きようとすると云うことだ。
それでもその後に何度か自殺を図っている。
どうしようもない絶望感に襲われたからだ。
でも、その理由はよく解っていない。
ただ社会から離れたかったのだ。
矛盾した話である。

ひとつだけ解っていることは、その時の私は孤独だったと云うことだ。
一人でいることは今も変わっていないのだが、孤独だと云うことは感じていない。
何故なのだろう?

ひとつには同じように心の問題を抱え、苦しみながらも社会との繋がりを取り戻そうとしている人達がいるということを知ったためだ。
同じように苦しみ、それを受け入れようとしている人達がいる。
それは私にの心を大きく変えた。

そして認知行動療法を知ったことも大きな変革だ。
いざとなれば頼れるツールがある。
これは強みだ。
そして地域に理解者に近い人を見つけたといいのも大きい。
今、そういう場所をもうひとつ見つけようとしている自分もいる。
Skype仲間もいる。
希望は持っていないが、生きられそうな気がしている。
そこにヒントはないだろうか?

理由は様々あるのだろうが、人が死のうと決意したとき、希望を失い、孤独な時ではないだろうか?
そしてそういう時、人は孤独な状態を維持するような環境に置かれてしまう。
自らの意思で、それを意識していなくても。。
彼らに必要なのは、理解者か、共に歩む人ではないだろうか?
だが、彼らにそれを見出だす力はない。
孤独というもの、それが一番の問題なのだと感じている。
でも、解決法が解らない。。

2013年11月23日土曜日

目の光

昨夜なじみの飲み屋さんに行った。
久しぶりに愉しき時間を過ごした。
そんな中で私の様子が変わったと言われた。

確かに2年ぶりのスーツ姿、これまで私服しか見てこなかったお店の人には新鮮に写ったのだろう。
けれども指摘はそれだけではなかった。
目の色が違うと言うのだ。。
目が生き生きとしていると言うのだ。

お世辞だったのかも知れない。
でも、それはそれで嬉しかった。
けれども、帰ってからこう思った。
「本当にそうなのだろうか?」

職場に戻って3日経つがあの感覚を感じることは今のところ、ない。
確かに憂鬱感を覚えることはないのだ。
何かが整理された感じがしている。
これはなんなのだろうか?

これまでと変わったのは、過去の記憶に悩まされていないという部分だ。
嫌なことがあると全て死んでいったもののせいにして来た。
それがないのだ。
今のところ気持ちを整理しなくてはいけないという事象もない。
充実とまではいかないが、楽に過ごしている。
休みの日は基本的に一人なので、誰かと会話をすることはない。
職場でも必要なことしか話さない。
でも苦しくない。
何がそうさせているのかは分からない。
でも、違うのだ。

自分を受け入れられたのだろうか。
そう考えることはあるのだが、そうとは言い切れない自分がいる。
ただ、このBlogをいつでも書けるようにタブレット端末とポケットWiFiは持ち歩いている。
文章を作ることは落ち着くからだ。
その効果があるのだろうか。
それが解らないまま、今日も拙い文章を作っている。
誰にも見られなくてもいい。
そう思いながら。。

2013年11月22日金曜日

最寄り駅

会社の最寄り駅だ。
もう何年も工事をしている。
いつになったら終わるのかも見当がつかない。

思えばこの駅に辿り着くことが出来なかった。
ひどく憂鬱で家を出るのに力と気合いが必要だったからだ。
過去に囚われ、希望を持たずに生きてきたのだ。
そんな生活は学生時代、いや子供の頃から続いていたように思える。

それは時々私に襲いかかり、家を出られなくした。
外の世界に出て傷つけらけるのを避けようとしていたのかもしれない。
そんなことはない、とは思えなかった。
何度か試みた自殺もそんな思いから来ていたのかもしれない。

今のところは憂鬱感はない。
しかし、今後どうなるかは分からない。
相変わらず希望のない日々を送っているからだ。
ただひとつだけ違うところは、先読みをしなくなったことだ。
暗い将来を考えないように出来ているのだ。
そのために、今日一日のことしか考えていない。
それがいいのかもしれない。

これからどうなるかは分からない。。
でも今のところは良い調子のようだ。
3ヶ月の慣らし運転が上手くいくといいと思っている。。

2013年11月21日木曜日

通勤電車

私は毎朝会社に7時代に着くようにしている。
混んだ通勤電車が嫌いだからだ。
その為には毎朝5時30分には起きなければならない。
これは休職前も同じだった。

以前はこの起きた時に憂鬱な気分だった。
それも殆ど毎日。
その積み重ねが休職を招いていた。
でも、今のところそれはない。
いいことだと思う。

このところ朝は寒いがエアコンの「入」タイマーを利用して起きる前に部屋を暖めている。
これが結構いい案配だ。
その他に風呂に入る時間を7時代に変えた。
この方が都合がいいのだ。
生活習慣を若干変えたのもいいのかもしれない。

けれどもまだ2日目だ。
まだどうなるかはわからない。。
それでもリワークに通えていたという実績を信じて進むしかない。
再発しそうなときはストレスケア病棟を活用すればいいのだ。
何も手立てのなかった時とは状況が違う。

今日も午前中は執務環境整備だ。
いらない書類はシュレッダーにかけてしまおう。
休職前の記憶とともに。。

2013年11月20日水曜日

1日目終了

やっとこさ1日目が終了した。

憂鬱な気分にはならず集中できたのではないかと思う。

心配していた午後の眠気も起きなかった。

まずまずの滑り出しといえるのだろう。。

2年のブランクがあったので会社の中は大分変わっていた。

結構多くの人が異動になっていた。

やっぱり、取り残され感はあった。

まぁ、今日は作業環境を整えるというのが業務だったので、作業的に何かをやったというものでもない。

だから、この程度で疲れてしまうのは如何かと思う。

そういえば、朝の憂鬱感も出なかった。

疲れはしたが、少しばかりの爽快感もある。

やはりこれはリワークをはじめとするメンタルケアのおかげなのだろう。

午前業務終了

午前中の業務が終了した。

緊張は大分治まってきたが、かわりに焦りが生じてきた。

どこから来るのかは大体想像できる。

特に焦る必要はないと思うのだが、やはりこれはどうしようもない。

誰にでもある感情と捉えて対処するのが良いのだろう。

心配していた職場の人間関係はとりあえずうまくいきそうだ。

ストレッサーであった人はどこかに異動したのだろう、ここの部署からはいなくなっていた。

それは私にとってはいいことだ。

この調子で午後の業務も続いてほしいと思っている。

出社

2年間のブランクを経て久しぶりに出社した。
街は微妙に変わっていて月日の長さを感じる。
7時31分、まだ誰も出社してない。
いつもの出社時間だ。
部署も5階から4階に移動している。
私の席には付箋が貼ってあり、受け入れてくれそうな気がしている。
だからといって両手を上げてというわけにもいかないのだろう。
今日は復帰の辞令交付があり、それから研修になるのだろう。
第1日目なのでそんなに気負うことはないと心に言い聞かせている。
パソコンの設定や社内システムの使い方はすっかり忘れてしまっている。
1から出直しだ。
心配していた緊張も家を出るときにはなかったが、ここに来てそれが出ている。
まぁ、当たり前の反応だろう。
とにかく、気覆わないことだ。
今日は仕事のできる環境づくりに努めよう。。

2013年11月19日火曜日

前夜

いよいよあと数時間で会社へ復帰だ。
けれども、意外と冷静でいられている。。
理由はよくわからない。

リワークでも最後ということで挨拶をした。
自分が感じたこと、思っていたことを言葉にできていたと思う。。
みんな真剣に訊いてくれたようだ。

いろいろ思うことはあるが、今考えても仕方がない。
自分が朝落ち込むという傾向さえ知っていれば何とかなるのではないだろうか?

結構行ってしまえば何とかなるような気がしている。
うん、考え方次第だ。

朝、通勤時に憂鬱なことに対しては、ウォークマンがある。
万一、会社で認知やアクションプランが必要になったらノートパソコンがある。
電車の中で人が煩わしく感じたらタブレットやポケットWiFiがある。
準備は万全なはずだ。
だから、大丈夫。きっと。。
今日はゆっくりと寝ることにしよう。
起動タイマーをエアコンにセットして。。

デジモノ

私もいくつかのデジモノを持っています。

パソコン、スマートフェン、タブレット端末、ポケットWiFi、デジカメ、ウォークマンなどです。

その中でウォークマンには結構お世話になっています。

いつもポケットの中に入っています。

私は人混みは嫌いです。、

他人を意識することが苦手なんですね。

だから満員電車などには乗れません。

必要な時以外には…。

それでも他人を意識してしまいます。

そんな時にウォークマンはとても重宝します。

何故なら、自分の世界に閉じこもってしまえるからです。

閉じこもるということは一見ネガティブな思考に考えられますが、私の場合余計なストレスに自分を晒さないというふうに考えています。

大事なことは不必要なストレスに身を晒さないことではないでしょうか?

他のデジモノもそれなりに活躍してくれています。

中でもノートパソコンとタブレット端末、ポケットWiFiは活躍してくれています。

BlogやFacebook、Twitterなどに書き込むことがメインなのですが、特にBlogは気持ちを整理することに役立っています。

また、「認知」や「アクションプラン」はノートパソコンでやることが多いです。

そのためにデーターベースを作ってあるので…。

まぁ、今の私にはデジモノは欠かせないものになっています。

人嫌いの私には丁度いいのではないかと思っています。。

出社前日

いよいよ出社前日となった。

これまで行ってきた休職中の生活も今日で終わりだ。

正直、緊張している。

唯一の不安材料であった「再発」の問題も昨日のスタッフ面談でほぼ解決された。

いわゆる「保険」を持つことが出来たからだ。

あとは出社時の周囲の目だ。

そこは行ってみなければわからない。

これまで2年の間席を外していたのだから、いろいろな目で見られるのだろう。

けれども、それを気にしていても仕方がない。

他人を変えることは出来ないからだ。

それならば自分を変えればいい。

そうすれば自分を取り巻く職場環境は変わるはずだ。

これまで、他人を変えようとしてきたところがある。

そして、変えられないことに強い疑問を持ち、怒りを覚え、苦しんできた。

だが、変えられないことを知り、変えられるものは自分だけだと知ったことで対応は変わってきた。

まず、怒りがなくなってきた。

幻滅することは未だにあるが、他人を変えようとは思わなくなった。

当然、苦しむこともなくなった。

それがどこからくるものかは、正直わからない。

ただ、自分の中の何かが変わったのだろう。

そんな気がする。

そういった意味では、今回の休職は意味のあったものだといえる。

休職当初、自分なんて変えられないと思っていた。

これだけ苦しんでいるのは過去にあった自分の周囲の環境のせいだ。

そう思ってきた。

記憶を消してしまいたい。

そうも思っていた。

けれども、今は違う。

相変わらず過去の記憶はあるが、それに触ろうとはしていない。

勿論、完全に触らないのではなく、時に触ってしまうこともあるが、その後の感情はうまく抑制されている。

カミングアウトして、それを元にした「認知」や「アクションプラン」をこなしてきて、考え方が整理され、無理なく受け入れてきたのだろう。

今、その時立てたアクションプランは実行していない。

必要なくなったのだ。

そして、このBlogを再開してから気分は更に安定してきたのではないかとさえ思っている。

記憶の整理には「書く」という行為が大きな影響力を持っているのかもしれない。

それに今は再発しそうな時の「保険」も持っている。

あとは職場環境と主治医、産業医、リワークの病院というトライアングルを築くことが残されている。

それには時間が必要なのであろう。

他人は変えられない、でも今の自分と未来は変えられる。

人は独りでは生きられないが、一人では生きていける。

今朝起きられたことは幸せだ。明日の幸せはわからない。

今日を精一杯生きる。

心の中で支えとなってくれる言葉も幾つか出会った。

これらの言葉は、今後も私の「お守り」となっていくだろう。

今、とても緊張している。

それは明日の朝、ピークを迎えるのだろう。

今日は帰ったら明日の準備を軽くしよう。

スーツを出し、ワイシャツを出し、普段着は少し姉妹、通勤セットを作ろう。

今日一日を大事に過ごそう。

大丈夫、無難にこなせるはずだ。

これまで歩んだ「実績」があるのだから。。

2013年11月18日月曜日

ストレスケア病棟

今日の午後、リワークの心理担当の人と面談をした。

明後日に現場復帰を控えて私の感情の波と対処法の知恵をもらうためだ。

特に再発の恐怖感を主に話した。

やはり大事なのは「サインを見逃さない」ことだった。

サインが認められたら「認知」を行う。

これがひとつの方法だ。

あと、自分の周囲に自分にふさわしい環境を作るということだ。

私の場合、家族と一緒に暮らしているわけではないので、職場なりに病気を理解してくれる人を作っておくといいのだそうだ。

それでもひどく落ち込んだ場合どうするのか?

話題はそこに及んだ。

そこで出てきたのがこの病院でやっている「ストレスケア病棟」だ。

いわゆる閉鎖病棟なのだが、一般の病室ではなくホテルの一室のような落ち着いた病室に入院するというものだ。

お値段は1日1万円程度だそうだ。

それを高いと見るか安いと見るかは考え方次第だ。

1週間5万円。

普通の病院の相部屋に入院してもそれくらい、いや、それ以上かかる。

それに病院から通勤もできるのだそうだ。

万が一の時の窓口はリワークスタッフがやってくれるそうだ。

これは私にとって心強い。

実際、この話のあとには恐怖心はかなり薄らいだ。

帰り際、パンフレットをもらってきた。

勿論、これに頼るわけではない。

ただ一種の「お守り」として、いざというときの備えとして心のなかに持っていればいいと思っている。

これを理想的に回すには、主治医、産業医、上司、ストレスケア病棟の主治医(あるいは病院)の連携をうまくしておいたほうがいいのだろう。

これは一長一短にできるものでもないような気がするので、じっくりと時間をかけていきたいと思っている。

これもまた、環境づくりだ。

「心の拠り所」というものは、無いよりもあったほうがいい。

1つより、より多くあったほうがいい。

それらを見つけ、作っていくことが「環境作り」ではないかと思う。。

再発防止

不安の一つに再発というものがある。
それは私にとって一種の恐怖にも似た感情である。

私はたいてい朝に落ち込んでしまう。
そうして酷くなると動けなくなるのだ。
それが思い出されて恐怖を感じるのだ。

ただ、過去は今更変えられない。
記憶を消すということも現実的ではない。
それならば、この恐怖が杞憂に終わることを願うしかないのか。
それでは解決にならない気がする。

私の病気は恐らく治らないだろう。。
ただ、薬によってかなり抑えられてはいる。
だから、そう悲観したものではないと思っている。。
しかし、感情は常にフラットではない。
どうしても波は生じてしまうのだ。

今はいわば世の中から隔離されている状態といってもいい。
だからメンタル面では割とフラットを保っていられる。
でも、社会に復帰してストレスにさらされた時にどうなるかはわからない。。
今、それを考えても仕方がないのだろうが。。

再発を避ける方法の一つにそのサインをできるだけ早い時期に察知するというものがある。
その低いレベルの時に何らかの方法で波を正常に戻すのがいいのだろう。
認知行動療法はそんな時に役立つのかもしれない。
だが、それを見逃してしまい、気づいた時には酷くなる手前だった場合、どうすればいいのだろう?
その方法を手に入れておいたほうがいいのではないか。
そんな風に考えることがある。
恐怖にも似た不安感は、その手立てを持っていないから来ているのかもしれない。。

壁の向こう

壁の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえる。

10月末までいたリワークプログラムの声だ。

卒業して復帰までの間、私はデイケアにいて簡単な作業を自主的にしているのだが、気持ちは壁向こう側に向いてしまう。

どうしても。。

やはりまだ気持ちは向こう側を求めているのだろう。

ある意味で卒業しきれていない、そんな感じだ。

時々このままでいいのだろうか?

と思う時がある。

だが、それも強制的に終わらされてしまう。。

思えば7ヶ月という時間は長かったようで短かった。

生活がリワークプログラムで染まってしまっていた。

だが、この生活は仮の姿だ。

1時期、このリワークプログラムが3ヶ月で終了されようとしていたことがある。

勿論、私はそれに抵抗し、他の仲間の援護もあり、この事案は取り消された。

しかし、8月以降に入った人たちは3ヶ月契約となった。

この背景は先日主治医が説明してくれた。

リワークという物自体が見直されつつあるのだそうだ。

6ヶ月という時間は長すぎるのではないか、そこまで長い休暇を撮れる人はそれほどいないのではないか、このような理由からこれまで6ヶ月とされていたものが3ヶ月単位に変更されつつあるのだそうだ。

この流れは周辺地域から進んでおり、私の病院もこれに習ったようだ。

だが、反発が出てしまったのにはやはりそのやり方が悪かったのであろう。

今、壁の向こう側は静かだ。

今週末に行われるディベートに向かっての準備をしているようだ。

本の半月前までは私もその中にいた。

その記憶が私を引き止めようとする。

それは引きちぎらなければいけない。

仮の住まいにいる時間はもうすぐ切れるのだ。

その向こうには本来いるべき場所が私を待っていてくれる。

そこに行くのには高いハードルがあるのだが、それは越えなければならない。

今、壁の向こうの音に私は耳をそばだてている。。

心の波

このところ緊張と不安が強くなってきている。

勿論、この理由は分かっている。

会社に復帰するからだ。

一つには職場が私をどう受け入れるのか、もう一つは再発しないかである。

今朝はそんな復帰した時のことを夢に見たような気がする。

それだけ緊張しているのだろう。。

緊張や不安は誰でも持っているもので特別特殊なものではない。

だからといってこれがなくなるわけでもなく、また余り気持ちのいいものでもない。

行ってしまえばなんていうことはない、ということも分かっている。

この事について「認知」もやってみた。

そして、これまでの実績があるのだから大丈夫だという結論にいたっている。

それでも不安は増すのだ。

今朝、早く目が覚めてしまったのもそのせいなのだろう。

これはあまりよろしくない。

これまで調整してきた生活のリズムを崩しかねない。。

もう少し楽に考えられないだろうかとも思う。

再発に関しては、これまでの私の記憶の支配からだいぶ離れてきているので、恐らくすぐに現れることはないだろう。

それでも再発に関する不安や怖れは拭い去ることが出来ない。

あの時の苦しさが蘇ってきてしまうからだ。

だが、その記憶と不安とはうまく付き合っていかねばなるまい。

やり過ぎた時のブレーキとして、それは必要なものだと思うからだ。

ブレーキのない乗り物はとても危険なものだ。

それは人のメンタル面にもいえるのかもしれない。

だから不安は必要なものなのかもしれない。

物事は「あるがまま」に受け止める。

それを変えることは出来ないからだ。

変えられるのは自分だけだ。

不安を受け止められる自分、それが今、必要なのだ。。

社会の中では一つの歯車にすぎないかもしれないが、「人生」という物語の中では、「自分」が主人公なのだ。

今までのようにネガティブな人生を送るか、それとも、物事をありのままに受け入れて楽に過ごせるようにするか。

すべては「自分自身」なのだ。

それさえ忘れなければ、大丈夫なはずなのだ。

今も不安と緊張は続いている。

再発に関しては恐怖を感じているいってもいい。

私はその恐怖を克服しようとは思わない。

それもまた、あるがままに受け止めようと思う。

その恐怖に抗うこともまた、ストレスになってしまうからだ。。

2013年11月17日日曜日

日曜日

今日は穏やかな日曜日。
少し前の天気予報では雨だといっていた気がしますが、温かい日差しが降ってきます。
家の中にいるのはもったいないので、外に出て喫茶店に来ています。

緊張は相変わらずです。
いや、むしろ強くなってきたような気もします。
だからこそ、落ち着いた空間というものが欲しいな、と思っていました。

ぼんやりと過ごす時間、それも意識して過ごすことは大切だと感じています。
家の中ではなく、外に出かけての時間。
これまでそういったことはやって来ませんでした。
そのせいなのかもしれません、過去に囚われ過ぎたのは。。
機能の心療内科でも主要因は過去のことだからなぁ、というような主治医の発言もありました。

過去との決別は私にとってライフワークみたいなものになっています。
激しい怒りや憎しみを感じるようなことは最近はありませんが、やはり記憶の片隅には相変わらず居てくれています。
でも、いつかはそれも治まるのでしょう。

それでも2年という時間がかかりました。
その間に世の中は少し変わったようです。
一人取り残されてしまったなぁ。
そんなふうに感じています。

2013年11月16日土曜日

心療内科

今日は通院の日。
いつもながら予約の時間より1時間ほど早く着いた。
自分の性格上仕方のないことだ。

この心療内科に通ってもう8年ほどになる。
それまでは色々な所に断られてきた。
病気の正体がはっきりしなかったというのもその理由の一つだろうか。。
その時は「人格障害」と言われてきた。
今は「双極性障害」で落ち着いている。
それに合った処方薬を服用して、今は落ち着いている。
過度な正義感も何とか抑えられるようになってきた。
それは良いことなのだろうと思う。

診察の時はリワークでの資料を提出することにしている。
「生活リズムチェック表」だ。
特に主治医に求められたわけではないが、自分の状況を説明するには良いものだから、こちらから提出するようにしたのだ。
それが功を奏したのか、会社への説明も楽に出来た。
何事もやってみることは大事だと思った。

待っている間、こうしてタブレットで遊んでいる。
WiFiのフリースポットがここでは入る。
渋谷という土地柄なのだろう、結構便利に使わせてもらっている。
午前の診察も終わりに近いのだろう。
待合室の人は少ない。
私は午後の診察なのでまだ暫くは待たされる。

ただ、待っている間も緊張している。
何もすることがないと緊張するようになった。
きっと復職が決まったからだろうと私は思っている。
これは暫くの間、続くのだろう。

待合室には静かな音楽がBGMで流れている。
これは精神を病んだ人が集まる場所共通のことだ。
静かな音楽で落ち着かせるためなのだろう。
CDラジカセが隅にちんまりと置かれている。

心療内科ではデイケアと異なり、明らかに病んでいるという人は少ない。
一見すると「普通の人」だ。
けれども皆苦しみを抱えている。
そしてその背後に家族などの苦しみを抱えている人たちが控えている。
そうした背景の人も救うのがこういう所なのかもしれない。

そろそろ人が増え始めた。
午後の診察の人なのだろう。
今日、呼ばれるのはいつ頃だろう?
そんなことを考えている。

2013年11月15日金曜日

禁酒

私はお酒を飲むのをやめた。

一度だけ飲まされたことはあったが、基本的には禁酒を継続できている。

飲みたいという衝動がないのだ。

これは不思議な事だと思っている。

もともと私はお酒が好きなのだ。

ビール、焼酎、日本酒、ウィスキー、バーボン、ウォッカ、など大抵のものは飲んできた。

だから基本的には「飲兵衛」なのだ。

それがよく止められていると思っている。

その助けになっているのが「ノンアルコールビール」だ。

これは味そのものがビールに近く、飲んだ気分になれる。

このため、居酒屋に行くこともできる。

こういう生活になって思ったことは、私はお酒が好きなのではなくて、お酒を呑んでいる雰囲気が好きなのだと感じてきた。

うん、きっとそうなのだ。

お酒は結構コミュニケーションツールとして使われもする。

シラフでは出来ない話やとっつきにくい人でもお酒で付き合えることがある。

だから手放したくはないツールだ。

お酒をやめたことで生活まで変えてしまうのはナンセンスではないか?

そんなふうに思う。

苦痛であることは考え方や行動を変えて対処する。

それで目的が果たせればいいではないか。

無理をすることはない。

気楽に望むべきだと私は思う。

2013年11月14日木曜日

イメージ

復職委員会の結果が出てからというもの、不安や緊張の度合いが増してしまった。

これはきっと、復職後の自分をイメージしてしまったためなのだろう。

今、そのイメージを持ってしまっても仕方のない事だということはわかってはいるのだ。

わかってはいるのだが、そのイメージはフラッシュバックのように浮かんでは消えていく…。

気持ちの整理ができていないのだろうと思い、このことについて認知を行ってみた。

そして復職委員会前の認知と比べてみると認知の歪みが一項目減っていた。

気分的には増加しているのだが、認知面では歪みが修正されていたようだ。

この気分は復職直前まで続くのだろう。

そして復職を果たすと、自動思考は似ていても異なる認知が必要になってくるのだろう。

適応的思考がたとえ同じであっても、様々な角度から認知と向き合ってみると気付かない面も見えてくるのだろう。認知の歪みが減っていたのもその辺りからなのではないかと思う。

会社に復帰してもノートパソコンは持ち歩こうと思う。

これを使えばいつでも認知やアクションプランが行えるからだ。

そのためのデータベースを作っておいて良かったと思う。

でも、ここまで心と向き合ったことは、これまで無かったといってよい。

これまでは「自分はなんて不幸なのだろう」と嘆いていたばかりだった。

それでは前に進めないのだ。

物事は見る方向を換えれば変わった見方ができるようになる。

私は今、一人だが決して孤独だとは思っていない。

だから虚しいとは思わない。

一人は自由だからだ。

私には将来の希望や夢などはない。

けれども、こうなりたいというイメージはなんとなく持っている。

よく夢や希望がなければ人は生きられないという人がいるが、私はそうは思わない。

少し先にこうなりたいというイメージさえあれば人は生きていけるのではないかと思う。

人は一人では生きていけないという人がいる。

そうだろうか?と私は考える。

独りでは確かに生きていけないのかもしれない。

でも一人であっても生きていけると私は思う。

大事なのは、良い考え方を身に付け、良きイメージとともに生きていくことなのだと私は思う。。

時間

時が経つのは早いものだ。

酷い鬱状態で動かねくなってしまってから今現在でほぼ2年が過ぎてしまった。

あの頃のことを振り返ってみると、大分楽になったことを実感している。

しかし、そこまでの道のりが過ぎてしまうと実に早いものに感じる。

時間の経過は子供の頃は1日単位、学生になると1週間単位、社会人になると1ヶ月単位、老いを迎えると1年単位で短く感じるものなのだそうだ。

これはライフサイクルからくるものだと聞いている。

子供の頃は1日、学生では1週間、社会人では1ヶ月、老いを迎えると1年というサイクルで「変化」を感じるからだそうだ。

では、私の場合はどうだっただろう?

始めの頃は2週間単位が短かった。

これは2週間単位で会社に現状を報告していたからだ。

その次に来たのが3ヶ月単位。

これは診断書のサイクルだ。

そしてリワークに参加してからは、1週間単位になった。

この感覚が職場復帰してからも維持できるといいと思っている。

流れる時間は絶対的なものなのだろうが、人が感じる時間は相対的なもののように感じる。

先に書いたような時間の流れを感じながら、きっと人は「死」を迎えるのだろう。。

その時になるときっと「人生」が短かったものだと感じるのだろう。。

2013年11月13日水曜日

復職

今日、復職の日取りが決定した。

11月20日から職場復帰だ。

やはり思った通り緊張と不安が増してきた。

まぁ、これは仕方のない事なのだろう。

思えば、ひどいうつ状態で動けなくなってから2年が経つ。

1年くらい経った時、復職できるのでは?と感じるほど精神面が安定してきたのだが、メンタルケアをきちんとやりたいと思ったのでリワークプログラムに参加した。

結果としてこれが良かった。

リワークプログラムでもいろいろあったのだが、メンタル面をケアする手法を教わったりもでき、また生活のリズムも無理なく整えられたのが良かったと思う。

主治医も自分の精神面を客観的に見られるようになったと言ってくれた。

復帰できる環境は整ったといえる。

あとはもう一歩踏み出すだけなのだが、なかなかその勇気が出ない。

きっと前日にはかなり緊張しているのだろう。。

それでも、これは越えなければいけないところ。

「なるようになる」程度の気持ちで受け止められるようにしたい。

OutlookとWindows Live Mail

メーラーをOutlookからWindows Live Mailに変えました。

何しろ私のロースペックなパソコンでは、Outlookは重すぎるんですね。

多少なりにも軽くならないか、それで変えたんです。。

何しろOutlookを使っていたのは、Widows Mobileの端末とパソコンでスケジュールの同期を取りたかったからなんです。

でも、今はGoogleカレンダーで同期が取れるので、その必要はなくなったんです。

だから糞重たいOutlookとはおさらばしました。

だからといってWindows Live Mailも決して軽いというわけではないんですね。

それでもOutlookよりはマシだと思います。

今、メールは基本的にはスマホでやっているんですね。

スマホはメールマシン、時々電話。あとはLine.

でも、Lineは家にいるときはパソコンでやっています。

とにかく、パソコンのソフトは機能が多くなくていい。軽いに越したことはない。

私はそういう人です。。

ノートパソコンとタブレットとスマホ

こののもの、最初はその差がよくわからなかった。

ここに「スマホ」が入ってくると、更にわかりにくいものとなった。

それが今ではある程度使い分けができている。

タブレットとスマホは同じアンドロイドなので、出来ることは基本的の同じだ。

その差は「電話」や「メール」などが常に出来るスマホと、そうではないタブレットというところだ。

このため、スマホには通信やSNSと言ったアプリが中心になって入っていて、タブレットにはSNSやビジネス向けのアプリが入っている。

両者に共通して入っているのは、スケジュール管理とSNS、それに「糖尿病手帳」だ。

その内でSNSは、基本的にタブレットで楽しんでいる。

その理由は「入力のしやすさ」だからだ。

どちらもGoogle日本語入力で行っているが、タブレットの方が当然のごとくキーが大きいので入力しやすいからだ。

それでは、ノートパソコンとタブレットではどうか?

その使い分けは「机がある」かどうかだ。

移動中や病院の待合室などでは「机」はない。

それでも、電車の中でノートパソコンを駆使している人がいる。

自分では「できる人間」とでも思っているのだろうが、あれは私から見ればかえってみっともないようにしか映らない。

そういう場ではスマホかタブレットだろう。

そのほうがスマートだ。

それに電車の中でノートパソコンを使っている人をみると、人に迷惑をかけているようにしか私には見えないし、近くで使われると私は迷惑に感じる。

すべての端末(デスクトップも含む)に共通して入っているのは、Dropbox、Googleドライブ、BlogとFacebookに書き込むアプリ、スケジュール管理のアプリくらいだが、これで明確に使い分けができている。

もともとアンドロイドのスマホにしたのが、Googleカレンダーでパソコンと連動できるからだ。

DropboxやGoogleドライブを入れているので、データは共有できる。

Office互換ソフトを入れているので、Office文書は閲覧・編集ができる(スマホやタブレットにないのはAccessくらいなものだ)。

だから結構どの端末でもできることは多い。

要はTPOではないかと思っている。

公的なものと私的なもの

私の言葉は「公的なもの」と「私的なもの」とがはっきりと分かれている。

勿論、これは誰しもそうだと思うが、私はこれを意識してしまっている。

公的なものの言い回しは「です・ます」調、私的なものは「である」に近い言い回しをしている。

こういったものが顕著に現れているのがBlogとFacebookである。

どちらも「公開」されているものだが、Facebookはより公開生が強く、Blogは私的な部分が強いと感じている。

これは取り上げているものにもよるのだろう。

Facebookは日常の出来事のほうが多いし、Blogは日々に感じたことのほうが多い。

同じBlogでもホームページに付随したものでは「です・ます」調だ。

こちらは主に「メンタル系」に近いものを取り上げることとし、柔らかな表現に努めようとしているからだ。

まぁ、複数の人に見られることを意識しているのだろう(実際にはそうではないのだが…)。

そのため、このBlogでは人に見られることをあまり意識していない。

見たければ、見ればいい。

そんなスタンスだ。

ここでは、いわゆる「日記帳」のイメージが強い。

ある意味で「考え方」を整理しようとしているのかもしれない。

それならば、ネット上で自分を曝け出すのではなく、普通の日記帳に知ればいいではないか、そんなふうに感じることもある。

実際、タブレットにはそういうアプリも入っている。

しかし、ここでも「使い分け」がなされている。

タブレットに入っているアプリは、本当に人に見られたくないものを書き込むようにしている。

こういうネタはそれほどないので、このアプリを使って書かれることはとても少ない。

日々を振り返るレベルではないのだ。

私は、もともと「日記」が苦手なのだ。

だから、毎日書かなければいけないという義務感は持っていない。

書きたい時に書く、そんなスタンスだからFacebookは続いているのだろう。

Blogはそうでもない。

頻繁に書くこともあれば、放置のまま、ということもある。

今、続いている理由は「デイケアに参加している」ことと、「書き込む環境を整えた」からだ。

ポケットWiFiを手に入れたことも環境を整えた一つだといえる。

これのお陰でどこでもネットに繋げられる。

だから、移動先で机が使える場合はノートパソコン、そうでない場合はタブレットで同じ作業ができる。

それにプラウザからではなく、それぞれ専用のアプリを使っている、ということもそうだ。

余り変化のない日常でも、こういったものに書き込めだけの感性は持ち続けていたい。

それが「変化のない日常に変化をつける」ことではないだろうか?

不安と緊張

同じような内容をホームページのブログにも書いた。

今日、いやここ数日少し緊張しているし、不安を感じている。

今日は会社で「復職委員会」が開かれるのだ。

つまり、今日で私が復帰できるかどうかが決まるのだ。

緊張するな、という方が土台無理な話だ。

緊張して、不安を感じて当たり前なのだ。

とはいえ、あまりいい感じがするものではない。

胸のあたりが少し締め付けられるような感じがする。

結局、家にいてもまんじりとも出来ないと思ったので、今日はデイケアに参加している。

とはいえ、することは余り家にいるのと代わりはないのだが、集中力の訓練にはなる。

家にいるよりもずっといい。

緊張も不安も似たような感情だ。

戻ったとき部署の人達は私をどう受け止めるのだろうか?

再発はしないだろうか?

そんな思いが頭をよぎっている。

いわゆる「防御本能」ではないかと感じている。

それを少しでも和らげるにはどうしたらいいものだろうとここ数日考えている。

恐らく「認知」をすればいいのだろう。

それをもってすれば、きっとこの感情の歪み方がわかり、適応した考えが見出されるのだろう。

でも、これには時間がかかりそうだ。

この作業は苦しいのかもしれない。

それが躊躇させている。

それでも、この感情を克服しなければならない。

社会人として「リスタート」しなければならないからだ。

2013年11月12日火曜日

デイケアにて

今日もデイケアに来て作業をしている。

背後からは10月までいたリワークのプログラムの声が聞こえてくる。

なんとなくその環に戻りたいという気持ちも湧いてくるのだが、今ここにいる。

私が作業している部屋(Bホールと呼ばれている)には、デイケアのプログラムに参加していない(出来ない?)人たちなどが来て、思い思いのことをしている。

新聞を呼んでいる人、ボヤーッと座っている人、勉強をしている人、中には眠っている人さえいる。

基本的にデイケアは来てさえしまえば何をやっていても自由だからだ。

勿論、重篤な人などは何も出来ず、ただデイケアに参加するだけでよしとされているのだが、最近は少し様子が変わってきている。

それはリワークに参加すべく待機をしている人がデイケアに来ていることだ。

これまでリワークに参加しても月にして1人は脱落者が出ていた。

その辺を考慮して、先ずデイケアで生活のリズムや体調を整えようというのであろう。

それはいいことだと思っている。

実際のところ、私らの代まではリワークは6ヶ月契約であったものが、今年の7月から入る人は3ヶ月契約になっている。1/2になったのだから、プログラムは当然「詰め込み型」になってしまった。

従って、ある程度回復していないとついていけなくなっている。

だから、リワークへのインターバルとしてデイケアを活用することは良いシステムだと思う。

こういう言い方は失礼なんだが、確かにデイケアでは一見して「変わった」人が多い。

そんな中で「普通」に見えるのがリワーク待機組ではないかと思う。

また、もう一つできあえを利用しているのは、私のようにリワーク卒業組だ。

これは自由意志なのだが、リワークを卒業してもすぐ復職できるわけではない。

会社の手続き上の問題などで多少のブランクが空いてしまうこともある。

そんな時に怖いのが、以前のような生活に戻ってしまうことだ。

それを回避するためにリワーク卒業後、デイケアを利用する人もいる。

この場合のいいところは、月に1回だがリワークのスタッフに相談事ができることだ。

卒業しても心の問題が解決されたわけではない。

やはりアフターケアは必要になってくることもあるだろう。

また、機能リワークのスタッフから電話があったのだが、スタッフの間ではリワークを卒業して復職した者に対してのアフターケアも考えているようだ。

まだスタッフ間の企画の段階だそうだが、卒業者の多くは賛成しているようだ。

この場合のネックは平日の午後に開催予定だということ。

しかしこれも「通院」の一環だということで解決できるのではないかと思う。

この病院のリワークは決してきつすぎるものではないが、このようなケアをしてくれるととてもありがたい。

この状態で進んでいってくれれば、きっと良いリワークのシステムが出来るのではないかと思う。

2013年11月11日月曜日

アフターリワーク?

先ほどリワークのスタッフさんから電話が来た。
なんでもリワーク卒業後、復職した者についてのアフターフォローを企画しているのだそうだ。
それは大変ありがたいことだと思う。
復職したからといっても、それはゴールではないからだ。
そこで初めてスタートラインに立ったといえるのだ。
不安、緊張などのストレスが襲ってくる。。
やはりそれに向き合い、受け止められるだけの「何か」が必要なのだと思う。
今のところ平日の午後というのが候補のようだが、「通院」ということにすれば会社側も文句は言わないだろう。
費用はMaxでリワークの金額を考えているようだ。
まだスタッフ間で「いいねぇ」と言っているレベルで具体化はしていない。
まず、卒業生の意向を訊いているようだ。
だが、良いことだと私は思う。
上手くことが運んでくれることを願っている。。