2012年10月15日月曜日

鬱期

今、酷く落ち込んでいる。

午後近くになって突然こうなった。

私は「双極性障害」だ。

だからやる気に満ち怒りっぽくなる「躁期」と落ち込んでしまう「鬱期」がある。

投薬治療によってこの差が大夫縮まってきたのだが、まだ完全にフラットになったわけではない。

躁の時の怒りっぽさは大夫なくなってきた。

だが、鬱の時のつらさはまだなくなってくれない。

そして何よりも辛いのが「双極性障害」は理解されていないということだ。

いわゆる「鬱病」は理解されつつある。

書籍、報道番組、映画など様々なメディアでも紹介されている。

また、従来の鬱病とは違う「新型鬱病」などが出ているとまで紹介されている。

中にはその症状をまねて仮病をする人もいるという。

鬱病の人たちの中にはこのような状況を「過大に報じられている」とする人もいるようだが、私から見ればこのような状況になっていることが羨ましくとさえ思える。

双極性障害はまだよく知られていない心の問題の一つだ。

活動的になれる「躁期」があるために落ち込んでしまう「鬱期」を「仮病だ」とする人たちが少なくない。

そのために的確な治療を受けることが早期にはできず、病状は進んでしまう。

こういう言い方は良くないのだが、鬱病は双極性障害に比べるとまだ楽な方だと思う。

世の中に理解されつつあるからだ。

様々な対処法も世の中には出ている。

だが、双極性障害に一般にははそういうものがない。

しかも鬱病と同じ「鬱」の時期がある。

何も変わるところがないのに、一方は理解され、一方は理解すらされないのだ。

これは「不公平」といってもいいのではないか?

私はそう思う。

こういう言い方をすると「お前は死にたいと思ったり、それを堪えたり、実行したことはないだろう?」という人もいるだろうが、私もそれを体験している。

リストカットやオーバード-スなどではなく「焼身自殺」を経験している。

その傷跡は五年以上過ぎた今でも消えてはおらず、生きている限りそれは消えることがない。

熱傷の患者というものも少なく、その苦しさやつらさを理解する人もいない。

だからといって卑屈になってはいけない、と自分に言い聞かせている。

特に鬱の状態の時はできる限り考えないようにしている。

鬱の時は確かに辛い。

けれどもそれよりも辛いのjは、周囲に理解されないことなのだ。

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