今日はほんの少しだが出かけた。
スクーターのガソリンが残り少なかったので入れに行ったのだ。
ついでに近くのスーパーで買い物をして帰ってきた。
大したスピードは出さなかったけれども、結構怖かった。
この間降った雪がまだ路面に少し残ってシャーベット状になっていたり、道が濡れて滑りやすかったからだ。
陽に当たったところは乾いていたのだが、日陰の部分はまだそんな感じなのだ。
だからなるべく危なくなさそうな部分を選んで走っていた。
勇気がないと言われればそれまでだが、もう若い頃のようには行かない自分がいる。
別に家族と一緒に暮らしているわけではない。
責任があるわけでもない。
要するに怖いのだ。
その原因には昨年の9月に起こった交通事故があるのだろう。
その時は肋と鎖骨を骨折した。
結構な大怪我だ。
その傷はまだ治っていない。
記憶とは恐ろしいものだ。
意識をしていなくても身体が覚えていることもあるのだ。
多分、危険なことから遠ざけるための本能なのだろう。
鬱状態というのもそんなものがあるのかもしれない。
魚を天敵と一緒に水槽で飼うと鬱状態を引き起こすということを以前テレビで見た。
それは防衛本能が引き起こすと言っていた。
辛い現実から逃れるために引き起こされる現象なのかもしれない。
人は時にそんな状態の者を非難することがある。
それには色々な事情もあるのだろう。
でも、私はそんな現実を悲しく思う。
病気の人間には罪はないからだ。
いくら理解が進んだとはいえ、まだ鬱や躁うつに対する他人の評価は良くない。
以前も言ったが、「気違い」という人間もいる。
否定はしたいのだが、それもまた現実である。
どんなに苦しさを叫んでも、それは人には届かない。
それがまた新たな苦しみを生む。
堂々巡りだ。
だから変わらなければならないのは、苦しみを抱えている人間になる。
人は簡単にそんなことをいう。
でも、それは簡単なことではない。
そのことを人は知らない。
それは悲しいことだと思う。
でも、そうするしかないのも現実である。。
苦しみの状態とそうでない状態は紙一重である。
だからいつ、こちら側に落ちてくるかは解らないのだ。
それに気づけば、人は変われるのかもしれない。
そうなれば苦しさから抜け出すこともずっと楽になるのかもしれない。
そんな日が早く来ることを私は願ってやまない。。
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