幸せってなんなのだろ?
時々漠然と考えることがある。
お金を持っていても幸せではなく、お金がなくても幸せだと云う人もいる。
一体幸せというものはなんなのだろうか?
私はまだ幸せだとは思っていない。
だからといって不幸せだとも思っていない。
別に仕事が充実している訳ではない。
お金がある訳でもない。
家族と共に暮らしている訳でもない。
寂しいと思わない事もない。
私に生育歴も普通ではない。
高校でドロップアウトしたし、子供の頃は暗いものだった。
それに見会う人生でもなかった。
そして、その頃は不孝だと思う毎日だった。
考え方が変わったのは最近になってからだ。
そして、それからが楽になった。
どうしてそうなったのかは解らない。
幸せには定義がない。
私はよくそう言う。
人生が辛いと思っている人などにだ。
不孝と云うものにはどうだろうか?
もしかするとそれにも定義はないのかもしれない。
ただひとつだけ云えるのは、笑いのない毎日を送っていることが不孝なのかもしれない。
人の人生を幸せと不孝とに分ける事が出来るのだろうか?
それはたぶんNoなのだろう。
幸せと不孝の間には無数の普通と云うものがあるのではないかと私は思う。
どだい2つに分けてしまう事は出来ないのではないかと思う。
1か0かに分けられる訳ではないと思う。
デジタルの世の中になって、こんな風に感じる考え方が増えてきてのではないのだろうか?
そしてアナログだった昭和という時代を懐かしむ。
1と0との間に無数の数があった時代を懐かしんでいる。
その背景は何なのだろうか?
昭和という時代はある意味で挑戦の時代だったのかもしれない。
それまで無かった物が沢山世の中に出てきて、それが普及してきた。
良い事も悪いこともあった時代だった。
ではその時代、人々は皆、幸せだったのだろうか?
必ずしもそうではなかった様に思う。
何時の時代にも幸せだと云う人はきっと少ないのだろう。
幸せとは自分の毎日を納得している人ではないかと思う。
ならば納得していないのは不孝なのだろうか?
そうではないと私は思う。
人生に納得してしまえば、そこから進歩はないのだろう。
進歩したいと思うのがきっと人間の考え方なのだろう。
そう云う状態は幸せとは云えないのかもしれない。
自分の欲求が満たされていないからだ。
だから人は理想を持ち、それに向かって行こうとするのだろう。
現実とのギャップを感じながら。
私にも理想の生活はある。
現実とのギャップも感じている。
それがすぐに叶わない事も知っている。
けれども、私は不孝ではない。
心に余裕があるからだと思う。
現在、それを感じる人は少ないのだろう。
それならば、私はもしかすると幸福なのかもしれない。
けれども、まだそれを実感は出来ていない。
きっとそれを感じられる日も来るのだろう。
その日を楽しみにして、今日を生きようと思う。
ただ、それだけしか出来ないのだから。。
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