最近、よく「ある筈のないもの」を見ることがよくある。
自分の視野のはしに人のようなものが見えるのだ。
そう聞くと他人は幻覚や霊を見ているのだろうと思うかもしれない。
けれども、そうではない。
単なる見間違えなのだ。
見えるところは大抵決まっている。
朝出社したばかりの自分の席なのだ。
それ以外の場所で見えることは少ない。
その席で視野の外に近いところにはパーティションがある。
丁度人が立っている高さだ。
私はそれを「人」と認識しているのだ。
幻覚も何も無いところでは見えないということがあるとテレビで言っていた。
幻覚の見えるところには大抵何かしらの物があるという。
つまり、それを違うものとして脳が認識しているというのだ。
私たちは普段、目でものを見ていると感じている。
けれども実際は脳がそれを見ているというのだ。
目から入った信号を脳が処理をした結果を私たちは「見ている 」と感じているのだ。
それと似ているかもしれない感覚が「不幸」の中での現実の捉え方ではないだろうか?
不幸の中にいるとき、一寸した出来事や失敗などがあっても、何で自分には悪いことばかりしか起こらないのかと自分の運命を呪ってしまう。
実際、私がそうだった。
しかし、それらの出来事は自分の境遇とは無関係なのだと思うようになってきた。
不幸な境遇にいるとき、脳はその事に対する処理に多くの力を使うのかもしれない。
そのために、日常生活にさく能力は自ずと下がってしまうのではないだろうか?
それでは集中力が落ちたり、注意力が散漫になってしまうのではないだろうか ?
そうなってしまうとミスも生じやすい。
だから悪いこととされる出来事が多いのではないだろうか?
要するに考えすぎなのだ。
けれども、その渦中にいるときはそういうことを考えにくい。
では、どうすれば良いのだろうか?
考え方を変えるのは結構難しい。
こういう考え方を変えるのにはアサーションの考え方が良いのかもしれない。
また、認知をすることで自分の歪みを知ることも効果があるのかもしれない。
だが、一般の人がそこに行き着くのには距離がある。
そんな時に人は新興宗教に出会ってしまうのかもしれない。
彼らは不幸な人間を見つけ出すのが上手だから。
宗教も一種のアサーションや認知なのかもしれない。
まぁ、ここでの話題ではないだろう。
不幸な時ほどメンタルケアの手法は有効なのだろう。
だが今はそれに出会うまでの距離は大きい。
この距離が少しでも短くなることを私は願っている。
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