2014年4月1日火曜日

奪われたもの

先日、会社の人間が自殺をした。
39歳と若い年齢だったので死因を聞いてみたところそうだった。
仕事で追い込まれていたのではないかという話もあり、借金があったとも言われているようだ。

人は何故、自殺をしてしまうのだろう?
私は半月ほど意識を失っていたことがあって、その時に感じたのは人は生きるようにできているということだった。
その意識を失った原因はやはり自殺だった。
死にたいと思っていたのだが、体は生きたいと思っていたのだろう。
こういった矛盾を人は抱えているのだろうか?

私はそこに矛盾はないと考えている。
そもそも自殺の原因の中に「生きたい」という思いがあるのだろうと考えている。
「死にたい」と思っている中に「生きたい」という気持ちがある。
それこそが矛盾ではないか?
誰もがそう思うのであろうが、私はそうは思わないのである。

では、何故死のうとしてしまうのだろうか?
死を決意するまでの間、人は懸命に生きようとする。
追い詰められていく限られた環境の中で必死に生きようとする。
しかし、現実は変わらない。
追い詰める力は変わることがなく、だんだんと自分を失っていってしまう。
しかし、人はそれでも生きたいと思う。
その時に死を選んでしまう。

死を選ぶのは、自分が自分であるためではなかろうか?
追い詰められて、自分を失うようになって、それでも行きたいと思うのだが、環境がそれを許さない。
行き場がなくなってしまった。
その時に自分を守るために見出す結論が自殺ではないだろうか?

残されたものがよく「何故気づくことが出来なかったのか」と嘆く言葉を聞く。
だが、それは無理なことなのだ。
人は当事者でない限り、その心の中を窺い知ることは出来ない。
当事者が相談できればよいのだが、それも難しい。
何故ならそれが出来ないほど冷静である余裕が無いからだ。
そのために、そのサインすら本人も周囲の者も見落としてしまうのだ。

自殺は罪である。
そう考える人がいる。
わたしは、それは間違いだと思う。
生きられなくなるほど追い詰められた人にそういうことを押し付けてしまうのは過酷すぎはしないだろうか?

サインに聞い付くことが出来るほど冷静であれば、人は自殺などはしない。
自殺をしてしまうのは、生きられなくなるほどに追い詰めてしまう現実があるからだ。
その現実も人が作り出すものなのだ。
罪はそこにこそあるのではないだろうか?
 自殺を罪だという人は、真実を見出す力が欠けているのではないか。
サインを見出すことの出来ない人は、人の痛みがわからないからではないだろうか?
そんなふうに考えたりもしてしまう。

生きていくことは難しい。
それは誰にでもいえることだ。
自殺をしてしまう人は脱落者だということも出来るのかもしれない。
けれども私はそう思いたくはない。
ただでさえ生きにくい世の中だ。
生き抜くためには、死に至ってしまった人達の声を聞く必要はないだろうか?

サインを見出すことは難しい。
そして、そのサインさえ見出すのは自分でしかなく、それを訴えるのも自分しかいない。
それは追い詰められて、心に深い傷を負った人には酷な話ではないだろうか?

世の中は隙あれば人から大切なモノを奪い去ろうとする。
そして奪われてしまうと、人は生きる気力をなくしてしまうのではないだろうか?
奪われたモノ、それは人によって違うのかもしれない。
けれども人間としてのアイデンティティが失われた時、人は死を選んでしまうのかもしれない。
人を死から救う方法はまだ見つけることは出来ないのかもしれない。
けれども、サインを見出す力こそがそれを防ぐことが出来る唯一の方法なのだろう。
それが当たり前のように出来る人が増えてくれるのを願ってやまない。。

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